道草を食う

~学校に行かないことを選択したあなたへ~

誰もが予想だにしなかった新型コロナによる生活の変化。一年前は、翌年のオリンピックに向けて計画を進め、商品のデザインもオリンピック使用が多かった。今ではいかにして終息させるかにてんやわんやで、翌年に向けられた感情は去年と一変。

小さな物体がこれほどまでに世界の基準を変えてしまうとは。原因がどうだろうと、起こったことは仕方がない。

こんなご時世に生きる学生は、狭苦しい空気の中勉強に励まなければならない。

ところがどうだろう、コロナによって思うように学校へ行けないどころか、行ける状況になっても普通に学校生活を楽しむことができない人が思いの外多いようだ。

逆にこれまで不登校だった人が、自粛期間を経て活動的になり学校へ行くようになったというケースもあるという。

昔からニュースや創作のドラマや映画などでも取り上げられる「いじめ」。

いじめではなくても、クラスに馴染めない・楽しくないと感じて学校へ顔を出さなくなる生徒もいるだろう。ネットワークという見えない網が蔓延る中、どこでどう自分のことを言われているかわからない。隣で笑っているひとだって、液晶画面上では自分のことを好き放題言っているかもしれない。

見えないからこそ、事実にしても嘘にしても想像は嫌な方に膨らむ。

先日見たニュースで、不登校者が21万人と言っていた。予想以上に多いと思った。

理由は千差万別だろう。生徒同士や先生との人間関係、いじめ、なんとなく行きたくなくなった、などきりが無い。今特有の、コロナによる影響もあるらしい。

いじめと聞くと、なんて暇な人たちなんだろうと思う。人間心理的に、仲間がいれば自分だけが悪いという意識が芽生えにくく、またその状況を楽しんでしまうだろう。

教室の机に空席があり続ける、そんな状況を何とも思っていない人がどれほどいることか。

学ぶ場へと足を向けられない、向けないどちらにしても、歯車が合っていないことは確かだ。

学校側からすれば、教育は受けて欲しいし、生徒のためや生活のため授業の準備も限られた時間でする。

おそらく、不登校になった人も分かっている。分かっていることがさらに苦しめる。

学校というところは、教科書とノートを机に広げ、教師の話を聞きながら情報を取り入れる場所。ずっとそれの繰り返し。そして一生涯の宝となる人間関係ができる場でもある。上下関係の基礎を学ぶことも大切だ。

日本は恵まれていて、ありがたいことに平等に教育を受けれて誰もが文字を読むことができる。目が見えなくとも話すことができる。

確かにそれは素晴らしいことだ。

いじめにしても勉強にしても、追いつめられると人は知らないうちに視界が狭まっていく。

第三者からすれば狭い世界での出来事だと思っても、本人にとっては大げさに言えば死活問題だ。それは存在意義や生死を分けるレベルまで様々だろう。

21万という数字が10万や一桁に減ることは今後そう起こらないと思う。

そして、この数字の裏に繋がっている各家庭。

何よりも、家が波長が合わなくなった人の心身休める場所だったらと思う。

親になる人は当然昔と価値観も育った環境も違う。会社などで過度なストレスに晒されている親もいるだろう。

そういった要素が子どもにどう影響を及ぼすか。

学校へ行かなくなった人たちにとって、家が「社会」なのだ。そこが荒れていれば、当然行き場がなくなる。

ストレスはストレスを生む。

その風が若い年代にも下ってきている、ということだろうか。

いじめを受けると分かって行く学校は時間の無駄だと思う。それで自分を壊すようなことになれば、元も子もない。勉強は家でもできる。好きな音楽を聴きながらでも。それか違うことに没頭した方がよっぽど有意義だろう。またはそれを発見するために色々するとか。

それと引きかえに、人間関係を構築する術を学ぶチャンスは逃しているということは、頭の端っこの方に置いておかなくてはならないけれど。どんなことも犠牲がつきものだ。

不登校になったからといって弱いわけではない。いじめる側が強いわけでもない。むしろその方が弱い。

いじめられることは自分の視野を広くするチャンス、と考えるとどうだろう。実際、個人経験として言うと、いじめられることが視野の広さへと繋がった。

なんだかんだ言って、好きなことが今日と明日への活力となる。

「好き」が生きる力を支えてくれますように。そして再び一人でも多くの人が学校にある自分の席に着いて勉強ができますように。

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