日々を過ごしていると、どうしてもマンネリ化してしまいがちだ。昨日の一日をコピーして今日にペーストするような毎日。気が付けば今日が終わる…と夕日に染まる空の下で思うこともある。電車だって同じ車両に乗って大体同じポジションで乗っているとデジャヴを感じたりするかもしれない。もはやデジャヴを感じすぎて麻痺しているかもしれない。
繰り返される日々に、人は癒しや「ほっこり」を求めたくなることがある。家族やペットの写真を眺めたり、猫や梟など動物がいるカフェへ行ったり…。人から見れば何の変哲もないものでも、誰かに取ってはそれが癒しだったりもする。突飛なことを言えば、筆者の場合だと漢字を眺めることは癒しに分類される。どこかへ行ったりせず、家でゆっくりするひとときも。癒しやほっこりは本でも得られる。その中の一つに、禅語がある。
禅語を知ると、人生とは何か、人の心の姿など教科書やマニュアルでは得られないあったかいものを得られる。もう少し難い世界に踏み込むならば、自己啓発本でも自分の背中を押してくれることが書いてある。いや、どっちも文字だらけでカタイじゃん、癒しじゃないよと言いたくなるのも分かるが、ちょっと待って欲しい。
人の考えは、見たり聞いたり読んだりと得た情報次第で変わっていく。柔軟に情報を取り入れながら、ふと振り返った時にそこに「芯」があることに気が付く。その芯はその人の個性でもあるし、何があってもぶれない筋や信念みたいなものだ。考え方も、客観的にみれば自分はこういう考え方をするのかと知ることもできる。
さて、禅語の話から考えることが何たらと書いてきたが、人が成長するに当たり、一気にあれこれと手を出せるわけではない。学校で言えば教育段階があり、地道に学んでいく。家の環境やそこに居る人も考え方には大きく影響しているだろう。
最近の小学生は、思ったよりも大人びている気がする。インターネットを使用する年齢層の下幅が広がっているからだろうか。インターネットには雑多な情報が転がっていて、何かコメントするとなると子どもでもそれなりに言葉に気を付けるようになる。もしかしたら、この他にも災害など問題を経て感じたことも影響しているかもしれない。
そして時に大人がびっくりするような発言や行動をする。それは想像力の豊かさからか、子どもならではの視線からか、世の縛りとうものをまだ知らないからか…。
そんな子どもが人生について何か言い出したら、大人はどう思うだろう?
子どものくせに年寄りじみたこと言うなぁ、ドラマや映画なんかの受け売りかな、ちょっと驚きはするものの微笑ましく思うことだろう。所詮子どもの言うことだから、大抵は「自由な発想力」に分類される。
ここで禅語に戻ろう。禅語は様々なジャンルの話が綴られた本の中でも特に静かな世界感を持つ。例えば、ニュートラルな状態でも禅の言葉に触れると自覚していなかった心の水面の波が落ち着いていく。いくら「普通」の状態でも、人の心というのは何かしら「小さな波」が立っている。修行を積んでいる人は違うかもしれないが。
禅語を知っているから大人だというと語弊があるが、その世界を知っているのと知っていないのとではやはり心の持ち方にも違いが出てくる。その点で言えば、子どもがそういったことを知っているのは「大人」と言えよう。
「悟り」に片脚を突っ込むなり境地に至ると、脳裏の視界が開けるような感覚があると勝手に筆者は思っている。
莫大で抽象的な「人生とは」という問いを自分や他人に投げかけたり、テレビや本などで目にすることがある。
ここで、超ド直球な答えがある。「人生はあっという間」ということだ。
言われなくても知ってるよ。時間は振り返るから早く感じられるんだ、充実している証拠だ。
まぁまぁ。ちょっと待って欲しい。
これを小学3年生が、本気で言っていたとしたら?感心するというより、ちょっと怖くない?何があった、と聞きたくなるのでは?
世の中にはたくさんの子どもがいる。もっと歳数少なくして似たようなことを言ったり、壮大ことをいう子どもも勿論いるだろう。悟りの境地に至ったようなセリフを言う子もいるだろう。
それにしても、禅語やそういった教えを知らない子どもがある日突然「人生はあっという間なんだ」と言うとは、ちょっとミステリアスだと思っている。
とは言っても、これは筆者の体験談なのだが。