*長文ですが、お付き合いいただけたら幸いです。
人は左右の手のどちらかをよく使う。箸などを持って食事をしたり、筆記用具を握り紙に文字を書く。世の中には足や口を駆使して文字を書く人もいるが、基本的には手を使う。
箸や筆記用具などを使う時、左手を主に使う人はサウスポーと呼ばれている。
率直に言うと、左利きは生活上の節々に「利き手の差別」を感じる。
左利きあるある
左利きだと周りが気が付くのに、ちょっとした“間”がある。
相手は違和感に気付いた瞬間、一秒だか二秒の絶妙な間を置いた後に「左利きなんだね」と大抵の人は言う。
あの“間”は、おそらく筆記用具を持った相手が、合わせ鏡になっていないことにアレ?と脳が混乱しているのだと思う。隣から見ると分かりやすいが、向かい合わせに座っているとなかなか気付きにくかったり混乱しやすい。
筆者は何度もその“間”に遭遇してきた。何か妙な間が空いたなと瞬時に思って理由が分からずにいると、唐突に左利きだと驚かれる。むしろそう言われた側が驚く始末。
左で書くのは本人からしたら当たり前のことで、当たり前のことを驚かれたということに驚くマトリョーシカ状態。マジックでも見たかのようなあの顔は何なのだろう。
横並びに座って食事するとき、左側に右利きの人が座ると腕がぶつかる。プラスな言い方をすれば、左利きが右利きの左側に座ると、利き手の腕が壁にならないためオープンに話をすることができる…かもしれない。
圧倒的に不利なこと
サウスポーは知られざる苦労をしている。何といっても書く作業。矯正することもあるが、利き手ではない方で字を書くと、脳がイライラしているのがわかる。「頭が」というより「脳が」。
漢字やアルファベットにしても、右手で書く方が楽なようになっていて、近道となっている。近道というのは、一画目から二画目に移るための筆先の距離のこと。
右利きは「引く」線の書き方に対して、左利きは「押す」線の書き方をしている。明らかに引く作業を繰り返した方が楽だし、真っ直ぐな線も書きやすい。
書く世界では、右手のルールが強いられている。中には左利きで引く書き方をしている人もいるかもしれないが、どちらにしろ書きにくいのは変わらないし、それでは漢字の書き方も滅茶苦茶になってしまう。
キャンパスノートは英語と同じように左から右に文字を書いていく。せっかく書いた文字を手で消しながら書いているようなものだ。実際には消えないが、鉛筆やペンの筆跡がぼやけたり滲むことはある。
こんな事件があった。企業説明会が終わり、エントリーシートを会場で書いて提出してから帰るという流れになり、そうなることは知らなかった。こういうことは実際よくあることだが(業界にもよるのかもしれない)、事件はこれではない。
肝心の文章を書いたエントリーシートが、泥にでも落としたのかというほど汚れていたのである。けれど泥に用紙を浸したわけではない。あれにはおそらく二つ不運が重なった。まず第一に左手で書いたということ。次に、用紙そのものの紙質がガサガサなタイプではなく、艶のあるタイプで、それはインクが乾きにくい。新聞に挟まっている広告の紙質より、もう少しレベルアップしたテラテラした紙だった。
懸命に考えた文を書き終えた後に気が付いたときの心境ときたら…。視野を広げる一環で行った所だったから、これまた何とも言えない。
駅の改札口でも問題はある。切符や定期券を通すのは右側で、わざわざ身をよじるようにして左手で券を改札機に突っ込む人はあまりいないだろう。右手が荷物で塞がっていて持ち替えられない、怪我をしていてなど、特別な理由がない限り右手で通す。
けれど、これはサウスポーには脳に負担だという。世の左利き陣は、右手で直に見えない脳にムチ打ち改札を通る。けれど、両手を使い分けるサウスポーもいるから何とも思っていない人もいるだろう。
また、筆者は数字がめっぽう苦手だ。何が得意で何が苦手かは、小学生になると分かり易く出てくる。筆者の場合、国語と算数のテストの点数がオセロのごとくはっきりと差がついていた。基本はできても応用問題はちんぷんかんぷんだ。それは何故かって、…応用の問題だから…。そこはもうナンプレで堪忍してください。(←それは脳のトレーニング)
すごく些細だが、飲食店などでも不便なことがある。友人の家などでご飯を頂く時などでもだが、箸やスプーンなどセッティングされている場合、当たり前だが右に持つ部分がある。持つ時には右手でまず取って持ち替えるか、左手で苦労しながら持つかする。こういう時、不快とまではいかないが、利き手の差別を暗に受けている気になってしまう。
あとは料理に使う「おたま」は地味にサウスポーへの嫌がらせの品である。飲食店などのバイキングにあるおたまは、スープなどを掬う部分の形が右利き仕様になっている雫形のやつが多い。筆者はおたまを使うのは右だが、たまに左手でおたまを持つこともある。そんな時に限って雫形のやつで、全然言うことを聞いてくれないおたまに不満が募る。
意外と使い分けるサウスポー
サウスポーには謎のマイルールを持つ人もいる。
例えば筆者の場合。左利きは、ハサミや包丁も左なんじゃないのと思っている人も多いかもしれないが、これは右でする。ボールを投げるのも蹴るのも右の方が楽で、歩き出しも右。そうかと思えば、算数の授業で使ったコンパスは左で使う。挙句には箸は両手使いとなっている。
左利きについて調べていて、思い出したのがトランプで遊ぶ時のことだった。トランプは左手で扇状に持つと先頭辺りのカードしか数字が見えない。あとはマークだけが見える。なんだかやりにくいなぁ、と思っていたのは覚えている。
なぜ刃類は右の方が楽なのかはわからない。とにもかくにも大きな動作は右が担当する。よく使う手の方が力が強い傾向にあるが、握力は筆者の場合は両方とも均一の取れた31キロだった。よく言う言葉で、「最後に測った時には」の話。最後っていつだよ、ってどこからか声がする気がする…。
右利きでも、例えば左でスプーンを試してみたら自然な動きに他者からは見えて、寧ろ右よりも良いという話もある。ますます利き手というものが謎めいてくる。
左利きが生んだもの
メリットもある。漢字が好きになれたことだ。
平仮名や漢字を習い始めて二年目、鉛筆を持った指が真っ赤になって凹むまで毎日文字を書いた。「帰」の字がどうしても良く書けず、阿保みたいに練習した。もはや書けなくて怒りながら書いていた。細かいところを気にする性質が幸いしてか、漢字のバランスや払い、止めなどよく見ながら勉強していた。
それか、「押して」書く苦労が、見本をよく見る習慣を身につけさせたのかもしれない。おかげで漢字好きになり、絵を描くとそこそこな出来に仕上がる。
小学三年生の時、授業に習字があった。当時の担任の先生が、「筆は絶対に右で持った方が良い」と言われ、その約束は高校の書道でも守っていた。
小学三年生の時の先生は字が達筆で、国語で漢字を教える時も一風変わっていた。先生は「お手を拝借」と決まって言い右手を上げると、生徒全員も右手を上げて、習う漢字を一緒に宙に書いて漢字を教わったものだ。
不思議なことに、利き手が要因で生まれるものもある。右脳派と左脳派で、得意不得意があるという話と関係していることもあるのだろう。
左利きは珍しいのか
幼児が筆記用具を持ち始めたころは、書くという作業を楽しむことに夢中になってその後の苦労は考えもしない。
利き手に関して、アメリカの発達心理学者アーノルド・ゲゼルが研究を行った。その結果、どちらの利き手になるかは四歳頃までわからないという。それまでどちらの手でも色々な物を触り、四歳頃に固定されるのだそうだ。
好きなように持たせて左だったのなら、無理に変えさせなくても良いと思う。
左利きは世に10パーセント程度いると言われているらしいが、これまで割りと多く見て来た気がする。こんな話もある。右利きの人が気が付いていないだけで、左利きの潜在能力を持つ人がいるという。
さいごに
左手で文字を書くということを重点的に語ってきたが、右利きの人がどれほど利き手に対して考えているのかは分からない。右利きが圧倒的に多い世の中、利き手について考えることはあまりないだろう。けれど、左利きから見ると右利きの人たちは未知の領域にいるように思える。それは逆でも言えるだろうけれど。
やはり右優位の文字の世界では、左で書いている姿は美しくないケースが多い。
「押す」書き方では、どうしても力の入り方が違い、それ故に変なフォームになってしまう。筆記用具の持ち方ばかりか、紙を斜め45度に置いて文字を書いている人を見たことがあるが、それで文を真っ直ぐにかけるのだから、もはやマジックの域でさえある。良いように言えば、器用。
左利きでも、正しい書き順で字のバランスを意識すれば、綺麗な字を書くことができる。字は態を表す。左手で書いているからと自分の字を諦めるのはもったいない。
子どもが左利きだと、矯正した方がいいのかな?と思うかもしれない。けれど、利き手ではない方で書く作業をすると「脳が」イライラする。
先天的に決まるという利き手を無理をして矯正すると、その後何十年と脳のイライラを本人が感じていなくても積み重ねていくことになるだろう。その結果、体に支障をきたすことも考えられる。
いまだ謎に包まれたことも多い脳と関係すると言われている利き手は、決まり方にはっきりと説明がされてはいない。迷路の入口がライトで照らされていても、出口は真っ暗闇の状況のようなものだ。また、遺伝子やホルモンが関係しているのではという説もある。
左ライフには不便だなと感じることはあるが、脳に負担がかからない方で過ごすのが結局のところ本人の為であると思う。